今、落語ブームが到来していることをご存知でしょうか。
雲田はるこ『昭和元禄落語心中』が、
若い世代を含め人気を博し、
全世代から落語が見直されているのです。
落語と小説は深く結びついています。
現代落語の代表者であった立川談志は、
色川武大(別名 阿佐田哲也)を、
小説家のなかで殆ど唯一敬愛していた。
色川武大として『離婚』『百』『狂人日記』などの純文学小説を残すとともに、
阿佐田哲也の名で『麻雀放浪記』などの大衆小説も手がけた彼。
これは余談であるが、
ナルコレプシー(睡眠障害)という持病をもち、
どこでも急に眠ってしまうことが多かったらしい。
そんな色川武大(別名 阿佐田哲也)をモデルにして書かれたのが、
伊集院静の『いねむり先生』である。
話を元に戻そう。
落語と小説の関係。
小説家の方には
「落語のようなものを書きたい」
という方が多いことはご存知でしょうか。
落語には独特のリズムで、先に進めて行く力がある。
それはよく「音楽のようだ」とも言われる。
小説もまた、「音楽のよう」であることが評価される。
文体やリズムが特徴的な現代小説家として、
真っ先に思い浮かぶのが、町田康である。
『くっすん大黒』で鮮烈なデビューを飾った町田康の小説は、
デビュー当時から「落語のようだ」と言われてきた。
落語には、表現の上での無駄がない。
1人で何人もの人物を演じるが、
例えば、「彼が〜」「〜と言った」と言ったように、
説明する言葉は極力避けられる。
顔の向きなどの動作、口調など、様々な要素で人物を演じ分けるなかで、
言葉で人物を説明してしまうというのは、
落語家の恥なのである。
町田康の小説もまた、無駄のない「話し言葉」で書かれている。
ここでいう「話し言葉」とは、なにも会話文が多い、ということではない。
地の文を含め、全てが話し言葉(のようで)、淀みない流れがあるのだ。
だからこそあの独特なリズムが生じるのである。
つまり、どんどんページをめくりたくなる小説には、
無駄がないのだ。
町田康の小説が面白いのは「落語のよう」だからなのである。
なにもこれは私だけが思っているのではなく、
町田康がデビューした当時から、
あらゆる書評で語られてきたことである。
そして実際、町田康は落語愛好家として知られている。
もう1つ、特筆すべき点は、彼と音楽の関係だ。
パンクロックバンド「INU」のボーカルとして世に出た彼は、
その根本に「音楽」がある。
町田康はかつて、音楽も小説も同じだと発言した。
なるほど彼にとっては、
「音楽」=「小説」=「落語」なのである。
どうやら文章を書く上で、大切なのは、
「無駄をなくす」
ことなのかもしれない。
「無駄をなくす」ことが、
文章にリズムを生むための一番の近道なのであろう。
そしてその手がかりを落語は教えてくれる。
今回はこの辺で。
近いうちに「落語」と関係の深い小説を紹介します。