『読書について』ショウペンハウエル
表紙にはこうある。
「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失っていく。」
一流の文章家ショウペンハウエルが、
読書の重要性と危険性について書いている。
内容を一言でいえば、
「読書は有益であるが、方法を誤ると無益になる」
というような事が、様々な視点から書かれている。
それにしても『読書について』という題は、
このブログの題としてそのまま通用する。
今回はそんなこのブログの「土台」となった本について紹介する。
『思索』
一貫して書かれていることは、
「自分で考えることの重要性」である。
ショウペンハウエルは、
「我々が徹底的に考えることができるのは自分で知っていることだけである。」
と断言する。
「思索」と「読書」。
「思索」で得た思想は、強い。
「読書」で得た思想は、弱い。
一言で言えばそれだけである。
■ 読書 ■
読書は楽である。しかし、他人が思索した結果の文章を読み、それを自らの思想とするのは、無理があり、また、そうしたとしてもそれは脆弱な思想である。それはショウペンハウエルに言わせると、「義手義足」のようなものらしい。
「読書は思索の代用品にすぎない」
とショウペンハウエルは警笛を鳴らす。
■ 思索 ■
逆に、
自分の思索で真理を獲得すれば、その真理の価値は、読んで得たものの100倍にもまさる。なぜなら、自ら得た思想は、その他の自分の思想の全体系に繰り入れられ、「有機的な一部」となるからである。そして自分の一部となった思索は、消滅することがない。
本には、ゲーテの一句が引用されている。
汝の父祖の遺せしものを、
おのれのものとすべく、自ら獲得せよ。
では、読書は意味がないのか?
答えは、否!
ショウペンハウエルは、例として
「思想家」を挙げている。
多量の知識を必要とする思想家は、多読が必要である。
思想家は、読書で得たものをすべて消化し、同化して自分の思想体系に併合する。
いわば、自らの思索の、
「材料」や「基音」となる。
「読書」を有益にする為には?
ショウペンハウエルは、体験を重要視する。
「凡庸な書籍哲学者と自ら思索する者との関係は、歴史研究家と目撃者のそれに等しい。」
読書はあくまでも間接的なものであり、
直接的に事柄に接することで、自分なりの思索が生まれるのだ。
しかし読書を「材料」とするのは難しい。
それは、
「自ら思索する」ということが「到来を待つ」ことだからである。
これは、井筒俊彦の「コトバ」の概念と同じだ。
詳しくは、こちらに書いています。
《若松英輔『生きる哲学』 「コトバ」とは何か?これを読めば、井筒俊彦の哲学がスッキリ分かる!》
➡︎http://wp.me/p8xAeH-2R
自らの思索の到来を待っている間こそ、
「読書」
のベストタイミングである。
※ここでもショウペンハウエルは警笛を鳴らしている。
多読して他者の思索を取り入れていくことは、まだ不完全な自分の思索の邪魔となり、
時にはそれを歪曲してしまう恐れがある。
「世間普通の人たちはむずかしい問題解決にあたって、熱意と性急のあまり、権威ある言葉を引用したがる。」
思索を自ら獲得する為には、
「楽」と「焦」はNG!
「信じるな考えろ!」
とショウペンハウエルは叫んでいるように思える。
「信じる」ことばかりで「考える」ことがないのは、現代の学校教育と同じだ。
学校教育の危険性については、こちらで書いています。
《数学「ポアンカレ予想」の解決から、現代日本社会が学ぶべきこと。》
➡︎http://wp.me/p8xAeH-aS
ショウペンハウエルは1788-1860年に生きた人物である。
しかしながら、これほどまでに
現代に通用する痛烈なアフォリズムを『読書について』は教えてくれる。
読書好き、必読の書である。