玄侑 宗久とは?
玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)
昭和31年(1956)、福島県三春町生まれ。
慶應義塾大学文学部中国文学科卒業後、さまざまな仕事を経験。
京都天龍寺専門道場に掛搭。現在、臨済宗妙心寺派福聚寺住職。
僧職のかたわら執筆活動。平成13年『中陰の花』で芥川賞を受賞。
平成26年には、東日本大震災を被災者の視点で描いた
『光の山』(新潮社)が芸術選奨文部科学大臣賞受賞している。
『ないがままで生きる』
そんな僧侶であり、小説家である玄侑宗久が、
現代人に対する助言を与えてくれるのが『ないがままで生きる』という本である。
現代人は、
とかく「分別」「知識」「想定」「秩序」「自己」「目標」などにとらわれがち。
これらにとらわれた現代人の心を6つの「無」の言葉からゆるゆるとほどきます。
この本の手がかりは「無」。
・「無分別」― 悟った人の世界はこんなに自由!
・「無為自然」―小賢しい思惑から離れると、身についた性(もちまえ)が豊かに現れる
・「無常」―自分自身も無常。「それはそうだ」を常に突き崩そう
・「無限」―人間に完成はない。一歩を踏み出せば無限の可能性が広がる
・「無我」―全てを受け容れると、人は最も強くなれる
・「無心」― 未来を憂えすぎず、「今」に無心になろう
雑学もたくさん。そもそも「ないがまま」とは?
そもそも「ないがまま」とは何か?
それは「あるがまま」の先をゆく言葉である。
筆者が初めてこの言葉を提唱したのは、
小説『アブラクサスの祭』の中である。
内容紹介
東北の小さな町の寺に勤める僧・浄念は、躁鬱に苦しみつつ薬と酒の力を借りて法要をこなす毎日。不惑間近となったいま、学生時代にのめり込んだバンドへの情熱が心を占める。やっと実現にこぎつけたライブのステージで、強烈な恍惚感とともに降りてきた啓示の正体は……。精神を病みロックに没入する僧が、祝祭の只中で感じた歓喜と安らぎ、心のひそやかな成長を描く芥川賞受賞第一作。
この小説は、なにせ、面白い。
スネオヘアー出演で映画化もされましたね。
この小説においてもキーワードである「ないがまま」。
たとえば、こんな会話が書かれている。
「自分がどういう人間か、なんて、あんまり考えなくて もいいのかもね」
「私は誰でもない」
「そうか、・・・あるがままじゃなくて、ないがまま、なんだね」
「ないんだから、初めから変えようもないし、磨きようもないってこと だね」
そんな「ないがまま」という言葉の真意がわかる
禅的指南書ともいうべき『ないがままに生きる』からは、
さまざまな雑学を知ることもできる。
たとえば、
「解」(わかる)という字。
これは、「牛」の「角」を「刀」で切る。
という行為からできた漢字だという。
他にも、禅の歴史、茶道、正坐、お辞儀、『方丈記』、梅桃桜、武道、
「独神」、松尾芭蕉などなど、さまざまなことを知ることができる。
非常に為になる、良書である。