「文は人なり」と「アイデンティティ」
「文は人なり」という言葉がある。
その人が使う言葉が、その人を表す。
言葉と人との同一性だ。
同一性というと、アイデンティティという言葉もある。
アイデンティティとは、自己同一性のことで、
一般的に、1人に1つだと考えられている。
しかしそうした固定されたものだと考えると、
そこには過ちが生じる。
さて、今回読んだのは、この本。
日本語は「空気」が決める~社会言語学入門~ (光文社新書)
内容紹介
特に日本語は「正しさ」より「ふさわしさ」……場の空気を的確につかんだ言葉選びが重要だ。社会言語学では、生きた言葉が、出身地や性差、職業、社会階層、状況、手段、相手などにより多様に使い分けられていることを研究する。なぜ方言は羨ましがられたり馬鹿にされたりするのか。自分を「オレ」と言ったり「ボク」と言ったりするのはなぜか。上手に敬語を使うには? 身近な日本語を分析しつつ「伝わる」日本語のコツをつかむ。
言語共同体
著者はアイデンティティについて、
「時間とともに変わっていくのがふつう」だと語る。
例を挙げると、
学生時代と社会人としてのアイデンティティは異なる。
「文は人なり」に戻って考えるとわかりやすいが、
例えば、学生時代と社会人での言葉づかいは違う。
もっと言えば、社会人という1つの「時間」のなかでも、
私たちは相手によって言葉を使い分けている。
子どもに話すときと
上司に話すときでは、自ずと言葉づかいが変わってくる。
逆に言えば、
相手の話す言葉で、
子どもなのか、女性なのか、男性なのか、年配の方なのか、東京の人なのか、沖縄の人なのか、などなど
常に私たちはアイデンティティを見極めている。
つまり、所属する人のアイデンティティによって言葉づかいのグループが形成されているのだ。
このグループを、
社会言語学では、「言語共同体」と呼ぶ。
著者は社会言語学の立場から、
そのジャンルをさらに詳しく区別していく。
どこ出身の、どんな人が、どんな人に、どんな状況で、どんな方法で、
といったように。
小説における言語共同体
この本をよんでいると、
社会言語学や言語共同体は小説を書くときにも重要であることに気づく。
「言語共同体」を上手く描く作家として、井上ひさし氏が挙げられるだろう。
例えば『吉里吉里人』という小説では、
「吉里吉里国」での言語共同体が描かれている。
井上ひさし『吉里吉里人』
内容(「BOOK」データベースより)
ある六月上旬の早朝、上野発青森行急行「十和田3号」を一ノ関近くの赤壁で緊急停車させた男たちがいた。「あんだ旅券ば持って居だが」。実にこの日午前六時、東北の一寒村吉里吉里国は突如日本からの分離独立を宣言したのだった。政治に、経済に、農業に医学に言語に…大国日本のかかえる問題を鮮やかに撃つおかしくも感動的な新国家。日本SF大賞、読売文学賞受賞作。
特定の言語共同体を描くことで小説の特異な世界が浮かび上がる。
社会言語学は小説家にとって非常に重要な学問であろう。