哲学書って難しい?
哲学書や哲学史は難しいイメージがあった。
しかし哲学を知ることは、こころをおおらかにしてくれる。
「忙しくて時間がない」と言われている現代人。
読書でさえも「速読」がスキルとされる現代。
哲学と向き合うには、そうした現代と離れなければならない。
ゆっくりと読めば読むほど、著者のことばに近づいていく。
今回は、私が読んだ哲学関係の本の中で、
オススメなものを紹介する。
『方法序説』デカルト著
私がデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉を初めて聞いた(目にした)のは、たしか小学生のころだった。
私は小学生の時、毎晩のように、自分が死んだら何処に行くのだろうということを考えて寝られなくなることがよくあった。考えれば考えるほど寝られなくなるのである。
そんなある日、授業でデカルトを学んだ。他のことはすぐ忘れてしまったり、理解できないことばかりだったけれど、「我思う、ゆえに我あり」というこの言葉だけはなぜかずっと忘れずに心の中に残っていた。先生が、「みんな思ったり考えたりしてるでしょ?思ったり考えたりしてる自分がそこにいるでしょ?だからここにいるんでしょ?」って言っていたのも不思議なほどはっきりと覚えている。そして下校し、その夜もいつも通り布団に入り、当然のことのように答えの見つかる気配すらない事を、また、考えた。そうして寝られない何十分が続いて、ふと「我思う、ゆえに我あり」という言葉を思い出した。
私はその時、頭の中で、なにかが繋がったような気がした。自分がこの世から居なくなったら、こうして、自分が死んだら何処に行くのだろうと考える、その思考すらもなくなってしまうんだということを理解した。それを理解して、私が見出した答えは、「無」だった。その時、私は頭の中で、こんなイメージをした。今は、こうして布団の上に寝転んでいる自分が、だんだんと萎れていって、やがて点となり、最後には、「無」になってしまう図である。点になるあたりまでは、「ああ、僕はもうこんなに小さくなってしまった。終わりだ。」と悲しい気持ちがあるのだけれど、「無」となった瞬間には、悲しいという気持ちも、言葉も、なにもなかった。
そんな事を考えていると、また疑問が浮かんできた。簡単に、「なにもなかった」なんて考えているけれど、しっかりと「なんにもない」状況を想像している自分がいて、「なんにもない」ということを俯瞰している自分がいて、その自分はあくまでも自分であるから、「なんにもない」と考えているけれど、考えられてないのではないか。ということである。今こうして文章で書いていても、これがはたして自分の伝えたい事が理解してもらえる文章なのかもわからなくなってくる。
私がその日の晩もなかなか寝付けなかったことは言うまでもない。
『西洋哲学史』(下巻) シュヴェーグラー著
西洋の哲学の流れを知るには、この本。
デカルトからスピノザまで。
この二人の関係とは?
精神と物体との考え方は、デカルトから始まりスピノザでその体系を完成させたといわれている。
デカルトは実体を、その存在の為に他のものを必要としないものと定義づけ、多くの実体を想定している。それを踏まえた上で、物体と精神という二つを全く別のものとして捉えている。物質の属性であり本質であるのは拡がりであり、精神の本質は思考であるとし、両者は共通のものを少しももたないとした。しかしこれには問題がある。それは、心の座の問題である。両者が互いに本質的に対立した実体であるとすれば、互いに浸透しあうことはできないということである。デカルトの心身二元論での難点は、両者の内面的媒介は不可能なのにもかかわらず、その媒介を必要としていることである。
これに対し、スピノザは、デカルトとは異なった考え方をする。まず、実体については、唯一つであり、それが神だという。物体と精神の関係については、両者の交互作用は存在しないとし、精神と肉体は同一物であって、この同一物が一方では意識を持つ思考として、他方では物質的で広がりをもつ存在として現れるにすぎないと考えた。つまりこの二つの違いは形式のみにあるということである。
デカルトの立場からみると非常に困難で説明のできない関係をスピノザは、簡単に解決したのである。