山下澄人『鳥の会議』
この本が単行本として出た時から、
町田康が絶賛したという話を耳にしていた。
それを聞いて読まずにはいられなかった。
読んでみてまず、
語り手の表現(視点)が自由な文体で知られる
山下澄人の文章は、
この本の登場人物たち、
まだ大人になっていない子どもたちを表すのにピッタリだと思った。
それはまだ確立されていない自己を、友達など、
他者と相互的に把握していくことによって、
他者の目を借りて己を見ることによって、
浮かび上がってくるアイデンティティが存在するからだ。
そうした過程を経て人間は、大人になるのかもしれない。
いや、、なってしまうのかもしれない。
そんなことを初めて読んだ時、考えさせられた。
最近、この『鳥の会議』が文庫化された。
解説は、町田康である。
帯にはこうある。
「私は 魂が 振れた」
町田康がこの小説をどう読んだのか、気になった。
解説を読むだけに買った。
でも手にしてみると、小説を読み返したくなった。
またあの未完成な自己たちを味わいたくなった。
やはりそこには、補完的に存在している子どもたちの美しさがあった。
町田康の解説
そうして、解説を読んだ。
町田康は、私が思った(確立されていない自己を確立していく段階の友人との関係)ことを、
「Share」という言葉で表現している。
そしてそのShareが心地よいのは、
自慢ではなく悲しみがあるからだという。
Shareという言葉は、よくSNSで使われる。
思い出の写真を投稿して、それを当事者以外の人々がShareする。
しかしそこには悲しみが存在しない。
ただの自慢であると町田康は述べている。
私は、
「悲しみに寄り添えるのは悲しみしかない」
というーの言葉を思い出した。
たしかに子どもの頃、なんとなく悲しかったような気がする。
それはまだ「何かが足りない」状態であったからであろう。
しかし大人になっていくにつれて、
その感覚は薄れてきたように思う。
注意しなければならないのは、
それは悲しみが減ることではないということだ。
悲しみの共有をして、
補完的に人間として生きていく機会が減るということではないか。
山下澄人『鳥の会議』には、
そんないつのまにか忘れていたものを思い出させる力がある。